イタリアの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチってどんな画家だったのでしょうか?レオナルドの出生と代表作品の壁画「最後の晩餐」の謎について書いてあります。
天才と言われるレオナルド・ダ・ヴィンチはどこで生まれたの?
レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年4月15日に現在のイタリアのトスカーナ地方のヴィンチ村に生まレました。
フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ(Leonardo di ser Piero da Vinci)です。「ダ・ヴィンチ」はヴィンチ村出身であることを表すそうです。そうすると「ヴィンチ村のレオナルド」さんという名前になります。
父は公証人という、結婚や土地の売買、遺言に必要なサインをすることでその書類が公的な力を発揮するという職業で、家は裕福でした。
レオナルドの母は農家の出身で、当時父親と母親が結婚していなかったため、レオナルドは非嫡出子であり、父の職業を継ぐ必要もないから勉強を強要されることもなくのびのびと幼少期を過ごしたようです。
どんな画家だったの?
14歳になるとレオナルドは芸術家のヴェロッキオに弟子入りしました。ここでレオナルドは美術の才能だけではなく、数学や建築や天文学や地理や土木工学の分野でも優れた才能を発揮しました。これがレオナルドが「天才」と呼ばれる理由の一つです。
ヴェロッキオの工房で6年の修行をして、工房の共同制作者として描いたのが「トリビアスと天使」「キリストの洗礼」です。
現在でも巨匠として名を馳せるレオナルドですが、現在残っていて確認されている作品数は意外と少なく40点程度です。確実にレオナルド作と分かっている作品だけに絞ると数はもっと少なくなります。
代表作「最後の晩餐」の謎
レオナルドは1495-1498年サンタ・マリア・デッリ・グラッツェ教会の食堂の壁に「最後の晩餐」を描きました。
これはキリストが処刑される前日に12人の弟子たちとの最後の晩餐風景で「この中の一人が私を裏切る」とキリストが予言した瞬間の絵です。
一点透視法で描かれ、その消失点はキリストの右こめかみにある事が釘を打った跡があることからわかります。
キリストを中心に弟子たちは3人1組の4グループに分かれるように描かれていています。向かって左から、バルトロマイ、小ヤコブ、アンデレ、イスカリオテのユダ、ペトロ、ヨハネ、イエス、トマス、大ヤコブ、フィリポ、ユダ(タダイ)、シモンとなります。
裏切り者のイスカリオテのユダが実際に銀貨を手にするのはイエスを引き渡した後になるのですが「手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」という聖書の表現が難しかったために、分かりやすいようにイスカリオテのユダは右手には銀貨30枚の入った袋を持っているといいます。
ユダとナイフの謎
「手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」という部分の絵画での表現が難しかったという解釈ですが、これはレオナルド程の描画力を持った天才と呼ばれる画家がそんなことをするのかというところに疑問が残ります。
意地でも描いたのではないかと思われる部分は強く、また時間軸に照らし合わせてもユダが銀貨をもらうのは晩餐よりずっと後のことであり、それを晩餐の場面に合わせてくる不自然さは否めません。
「最後の晩餐」は壁画用のフレスコ画の技法ではなくテンペラ画法を用いているため、1510年頃のレオナルド存命中から顔料が剥がれ、劣化が激しく修復作業が行われています。
ユダの下半分も剥離したので剥離部分の描き足しが繰り返されてきています。そこで考えられるのは構図が過程で変わっているという可能性です。
ユダは聖書の表現通りに左手から驚きでパンを落とした瞬間であって、右手にはナイフを持っていて、後ろのペトロに右手で押さえられているという構図です。
そうするとペトロのナイフを持っているとされている右手の角度の不自然さがなくなります。
人体の素描などでも「最後の晩餐」のペテロのような不自然な構図をとったことのないレオナルドがこれほどの大作でそんなことをしたのか、疑問の残る所です。
ヨハネの謎
「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席についていた」「その弟子が、イエスの胸元に寄りかかったまま」という記述がヨハネの福音書にあるので、それを表現するのならヨハネはイエスの胸に寄りかかっているはずですが、レオナルドの「最後の晩餐」ではヨハネとされる人物とイエスの間には逆三角形の空間があります。
そこからヨハネとされる人物がイエスに寄りかかってはいけない別の人物だったという可能性が指摘されています。小説「ダ・ヴィンチ・コード」で指摘されていますね。
ではそれは誰であったのでしょうか?よく言われるのが「マグダラのマリア」です。彼女は売春婦からイエスによって改心した女性です。そんなイエスの愛した女性を横に置いたと読む事もできます。ヨハネとされる人物は改めて見ると女性と見る事が十分にできます。かなり女性的な人物と見る事ができるのです。
イエスとマリアの距離の謎
もしイエスとマリアだったと仮定すると、その間には何が描かれるべきであるのかを考えると、二人の子どもであるべきという答えにたどり着きます。
その点を踏まえてもう一度「最後の晩餐」を見ると二人の間に一人描ける程の空間がある事がわかると思います。
レオナルドの「最後の晩餐」には沢山の謎があるようです。レオナルドの数少ない完成された作品であるという意見もあれば、未完の作品であるという見方もあります。
そもそもなぜ壁画として残すためのフレスコ画法ではなく壁画に向かないテンペラ画法でこれほどの大作に臨んだのか。フレスコ画法よりもテンペラ画法の方が描写に向いていたからでしょうか?ただそれだけの理由で存命中に剥離してしまうような作品を書いたのでしょうか?
私にはそこには長く語り尽くされたくない、議論されたくない、でも表現せずにはいられなかった、そんなレオナルドの真意があるように思えてなりません。
真実はレオナルドにしか分かりません。しかしその真実に近づこうとして「最後の晩餐」を観る時、今までとは違った楽しみ方ができるのではないでしょうか。