オランダが生んだ巨匠ゴッホの画家としての人生とゴッホ独特のうねりのある表現方法と「糸杉」に込めたゴッホの想いについて書いてあります。
ゴッホってどんな人?出生と画家としての活動期間は?
オランダが生んだ巨匠ゴッホの本名はVincent Willem Van Gogh(フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ)です。
ゴッホは1876年にオランダ南部のズンデルトの牧師の家に生まれました。ゴッホは小さな時から癇癪持ちの扱いづらい子供だったと言います。ゴッホは画家になった後もゴーギャンとの仲違いから耳を己で切り落としたり、気性の激しい一面を持っていた事が想像できます。
キリスト教の伝道師、聖職者を目指していたゴッホですが、受験勉強に耐えられずに挫折。1880年頃(27歳)から芸術の道に本格的に足を踏み入れ、そして1890年7月(37歳)に亡くなったのでゴッホが画家として活動したのはこの10年しかありません。
傑作と言われる作品の多くは1888年から1890年に描かれたものです。ゴッホの代名詞のような「ひまわり」や「糸杉」をモチーフにした作品はこの時期に描かれたものです。
意外と思うかもしれませんが、生前ゴッホの作品で売れたものは1点しかありません。1888年の「赤いブドウ畑」です。
ゴッホに影響を与えたハーグ派
オランダ時代のゴッホの作品は、有名なひまわりなどとはかけ離れた、茶色など暗い色彩で農夫やその生活を描いたものでした。
ミレーを敬い、ハーグ派という茶色やグレーを基調としたくすんだ色を使う画家との交流を通して絵画を学んだためで、ゴッホの初期の作品はくすんだ色で写実的に描かれています。(※ミレーの有名な作品に「落ち穂拾い」があります)
この初期の頃の集大成と言える作品が「じゃがいもを食べる人々」です。ゴッホはこの作品に満足していたようですが、周囲からの賞賛は得られませんでした。ゴッホの有名な作品からは想像もできないほど暗くくすんだ色で写実的作品です。
1986年にパリに出ると、画廊を経営している弟のテオを通して、沢山の画家との出会いをします。モネ、ルノワール、ドガ、スーラなど印象派、新印象派と呼ばれる画家の作品の色彩の鮮やかさに強く衝撃を受けゴッホの作品は一気に変化します。同時期に日本の浮世絵にも影響を受けています。
オランダ時代に補色についても学んでいたゴッホはここから補色を意識した色彩を作品に取り入れるようになっています。
パリから南フランスのアルルへ
1888年、ゴッホは画家の南フランスにあるアルルへ移住します。ポスト印象派(後期印象派)と言われるゴッホの作品の多くがこの時代以降のものです。
アルル時代にゴッホは7点もの「ひまわり」を描いています。ゴッホの「ひまわり」は何度も模写され背景や構図が少しずつ違います。
アルルで芸術家が相互に助け合える共同体を作ることを夢見て、ゴッホは多くの画家仲間を誘います。しかし結局アルルに赴いたのはゴーギャンただ一人でした。
「ひまわり」はゴーギャンとの共同生活が決まって、ゴーギャンがアルルへ来る前に描かれたものがあり、それはゴーギャンとの共同生活を歓迎していたことと無関係ではないでしょう。「夜のカフェテラス」や「ファンゴッホ の寝室」など、いわゆるゴッホの有名な作品が次々とここで描かれています。
しかしそのゴーギャンとの共同生活は、絵画への解釈や色彩や筆跡など色々な面でゴーギャンとはことごとくぶつかり、お互いに限界も感じるようになります。そして1988年12月23日、精神を病んだゴッホは自分の耳を切り落としてしまいます。
この事件後、ゴーギャンはパリへ戻ってしまいます。しかしその後もゴーギャンとの交流は絶えず、ゴッホはゴーギャンに頼まれて「ひまわり」を事件後にも描いています。頼まれたことで自信を取り戻し描いた「ひまわり」ですが、その後ゴーギャンに送られることはありませんでした。
サン=レミの療養所での糸杉との出会い
療養所へ入ったゴッホは一室を制作に使えるようにしてもらい、そこで絵を描きます。病室の窓から見える糸杉やオリーブ畑を描くようになりました。
ゴッホを代表する「糸杉」「星月夜」「糸杉と星の見える道」はここで生まれます。ゴッホ独特の渦巻いている筆のタッチは丁度この頃から始まっています。
これまでは厚く塗り重ねて筆跡を残す感じでしたが、この頃からゴッホの感情の揺れを示すかのように、さらに全体にうねりを意識した作品となりました。
「見えるものをそのまま写実的にそっくりに描くのではなく、その物の純粋な姿を表現したい」というゴッホの気持ちや死を意識して揺れ動くゴッホの心情そのままに、筆のうねりは力強くなって行ったように感じます。
糸杉の花言葉は“死・追悼・絶望”であり、糸杉は墓地などに植えられることもあります。またイエスキリストが張りつけにされた十字架も糸杉で作られていたという話もあります。
そのくらい「死」を連想させる糸杉にゴッホは心を奪われていきます。
ゴッホ は大地に根を張り天に真っ直ぐに登っていく糸杉に植物を超える畏怖の念を持ったのです。
今まで誰もモチーフにしてこなかった糸杉を、「形、色彩、黒い斑点、全てが素晴らしくこれをどうにか描きたい」と試行錯誤し、ゴッホの糸杉はその情熱と比例するように天に向けてうねりを上げていきます。
そこには、絵具を重ねていく量と同じ分だけの熱量を私たちは感じる事ができます。ゴッホの糸杉はまるで生きる炎のようです。
当時のゴッホは、弟テオに「僕は絵に命をかけた。そのために半ば正気でなくなっている。それもいいだろう」といった内容の手紙を書いています。ゴッホ自身、生きる力をこの絵を描くということから得ていたのでしょう。この時期ゴッホ にとって、生きるという事と絵を描く事が同等であったと思われます。
精神病であったとかてんかん持ちであったとか、ゴッホの病については諸説あり、真実はわかっていません。発作の間はゴッホは命を放棄するような行動もあったと言われています。
そして発作のない期間は死を象徴するようなモチーフに「生きる炎」を燃やしたゴッホ。その一筆、一筆は常に生きる事を肯定しているようで、ゴッホに「生きる事」を確信させたのではないでしょうか。「糸杉」によって救われたのはゴッホ自身であったと想像できます。
療養所での最後の作品は「糸杉と星の見える道」でした。「糸杉」と比べると「糸杉と星の見える道」は糸杉自体が抽象的な象徴としての役割が強くなっています。空は感情のうねりを表し、また二人の農夫が下に描かれています。これは初期の頃から労働する人々を尊敬し描いてきたゴッホの心情との融合と見られます。
ゴッホの最後
療養所を退院したゴッホは1890年5月にパリから北西に30キロほどのところにあるオーヴェルに滞在します。
ゴッホの大作の「荒れ模様の空の麦畑」「カラスのいる麦畑」「ドービニーの庭」がここで描かれました。この頃の作品の色使いは明るく不安定感が少なく、ゴッホ の「死」と「生」に関する心情が完結されたように感じます。
しかしこの年の7月27日、ゴッホは怪我を負って滞在していた旅館に戻ります。弾丸が心臓のわずか左から入り肋骨まで達していたため、手術もできない状態でした。これが拳銃での自殺であったのかは目撃者もいないためはっきりとわかっていません。
パリから駆けつけた弟のテオに見守られなが二日後の7月29日、ゴッホは息を引き取りました。享年37歳でした。ゴッホは死の間際に「このまま死んで行ければいいのだが」という言葉をテオに残しています。
ゴッホは死にたかったのでしょうか?この言葉だけを取るとそうとも思えます。ですがゴッホの作品を見るにつけ、彼は生きたかったのではと思います。
死を予期しながら生きるということに愚直なまでにぶつかっていったのがゴッホの短く太い人生だったと思います。それほどまでにゴッホの晩年の作品からはエネルギーを感じます。
ゴッホ展で約7年ぶりに「糸杉」が展示されます
この展覧会ではゴッホを始めとするポスト印象派の作品のみならず印象派やハーグ派と呼ばれる画家作品も展示され、ゴッホの太く短い画家人生を体感する事ができます。
東京上野の森美術館
2019年10月11日〜2020年1月13日
兵庫県立美術館(〒651-0073兵庫県中央区脇浜海岸通り1-1-1)
2020年1月25日〜2020年3月29日
※ゴッホ×スヌーピーのグッズが出ています。ゴッホに扮したスヌーピーのぬいぐるみやマグカップやポーチなどが購入できます。
とても可愛いです。