ミレーがどんな画家であったのか?有名作品の「種まく人」「落穂拾い」「晩鐘」について解説しています。
ミレーってどんなジャンルの画家なの?
ミレーは写実主義の流れを汲むフランスのバルビゾン派の画家です。後にゴッホに影響を与えた作家としてもよく知られている画家の一人です。
コロー、テオドール・ルソー、トロワイヨシ、ディアズ、デュプレ、ドービニーとミレーがバルビゾン派の中心人物で「バルビゾンの七星」と呼ばれることもあります。
バルビゾン派の画家たちは、バルビゾンの周辺に住み風景画やそこに根付く農民の労働姿などを写実的に描きました。
その中でもミレーは特に農民画を好んで描いています。
その作品には悲観的な視点ではなく、尊敬に値するような暖かなミレーの眼差しが感じられるのが印象的です。
ミレーの出生と画家としての活動の始まりは肖像画と裸婦画
ミレーの本名はジャン=フランソワ・ミレーです。1814年10月4日にフランスのノルマンディ地方に生まれた。家は農家で9人兄弟の長男であったミレーは後継ぎとして育てられました。
ミレーといえば農民を描いた作品を思い出す方が多いと思いますが、それはこの幼少期の農業に携わっていた経験からきているのですね。
ミレーの農民画の構図がリアルであるのもきっとこの経験の影響があると思います。。
そんな農家を継ぐはずのミレーに絵を描くように進めたのは、意外にも両親と祖母でした。
家の農業を手伝いながらあいた時間に描いた絵をみた両親がミレーの才能に驚き、シュブールにある画塾に入れたのです。
しかし父の死去でミレーは一度は農業を継ぐ覚悟で実家に戻ります。
実家に戻ると、ここでも祖母の強い薦めでまたシュブールに戻ることになりました。
そしてミレーはテオフィル・ラングロワ・ド・シェヴルヴィルの元で修行を続けることになります。
ミレーは師匠のラングロワの薦めでパリのエコール・デ・ボザールという国立美術学校に奨学金を使って入学します。
けれども指導方法が合わなかったようで、授業にあまり出席しなくなっていきます。
一方でルーブル美術館には足繁く通って、ミケランジェロやニコラ・プッサンなどの作品に触れ合い、強く影響を受けました。
1839年にローマ賞に落選するとミレーはエコール・デ・ボザールをやめてしまい、1940年にはサロン・ド・パリに入選して肖像画家として活躍するようになります。
しかしミレーは1944年に最初の妻ポリーヌを病気で亡くし落胆し、一度はシェルブールに戻ったものの、そこで二人目の妻となるカトリーヌと出会い再びパリに戻りロッシュシュアール通りに住みます。
ミレーはこの頃は裸婦画をたくさん描いていきました。子供も妻もいるので収入源として裸婦画を描いていたのです。
しかしある画廊の前での若者の会話をきっかけにミレーは裸婦画を描かなくなったと言われています。
それは若者二人の
「ミレーって知ってる?」
「ああ、裸の女しか描かない画家だろう」
という会話を聞いてしまったことです。
この時に「生活のためだからという理由で裸婦画を描くのは止めよう。自由に自分の好きな絵をだけを描いていこう」と心に誓ったそうです。
ここからミレーの意識は田舎風景に移っていき、私たちがよく知るミレーの作品になっていきます。
ミレーの農民画の原点
1848年にフランス革命(2月革命)があり、フィリップ=オーギュスト・ジャンロンが国立美術館総局長に任命されると、その影響でシャルル・ジャックやテオドール・ルソーやミレーに作品注文がされるようになりました。
1848年のサロンにミレーは「箕をふるう人」と「バビロン捕囚」を出して入選しました。
「バビロン捕囚」は歴史画ですが評判が悪く、「箕をふるう人」は色彩も認められましたが、何より空中を舞う箕の描写が素晴らしいと評価されました。
「箕をふるう人」がサロンで高い評価を得たことで、ミレーには制作依頼が来るようになりました。
「箕をふるう人」はミレーの農民画の出発点といえる作品です。
バルビゾンへ移り住み本格的な農民画へ。「種まく人」を描く。
1849年、ミレーはシャルル・ジャックに誘われて、フランスのバルビゾンへ移住します。
バルビゾンはミレーにとって風景画を描くにも最適といえる土地で、パリにいるよりも静かで制作に没頭することもでき、結果として良い作品ができるとミレーは考えました。
1850年「藁を束ねる人」と「種まく人」がサロンに入選しました。
「種まく人」は人物の粗末な服や種をまく姿がとても粗雑であり、とてもリアリティがあります。
農民の苦しい生活を表現しているので、ミレーはそこまで意図していなかったのですが、「種まく人」からは農民の苦しい生活の抗議であると政治的な意味を観た人が感じるのは当然のことでした。
保守派とブルジョワ階級の人々からは「嫌悪感を感じる」と非難され、労働階級からは「現代の労働階級を代表する美徳」と支持されました。
バルビゾンに集まった画家たちは、これまでの歴史画や宗教や神話を題材にした作品を脱却して、新しく自然を劇的な出来事を象徴する背景として描くのではなく、自然そのものを背景とし、自然そのものが主題となる絵画を目指しました。
その変化の中でミレーは自然主義で写実主義で、さらに風景の中に作者の意図を感じさせる農民や労働風景を描くようになります。
今までは高貴でブルジョワ階級の人々が絵のモデルとしてあげられていましたが、ミレーのモデルは労働階級の人々になり、モデルというよりはその風景の中に生きているモチーフのように農夫たちは描かれていきます。
そしてついに有名な代表作「落穂拾い」が1857年に描かれました。
「落穂拾い」は「種まく人」と「晩鐘」と並びミレーの代表作の一つです。
「落穂拾い」の意味とそこに込められたミレーの想い
落穂拾いの意味とは?
当時のフランスの農業社会では収穫の時にこぼれ落ちてしまった穀物はきれいに拾わずに、そのままに残して置くという慣習がありました。
それは農村で自らの労働で十分な収入を得られない寡婦や子供や農家が畑の落穂を拾い命をつなぐという権利が認められていて、そのために畑の持ち主も落穂を残さず回収してはいけないといったちょっと心が苦しくなるような、でも暖かさのある慣習です。
落穂拾いはバルビゾンの農地でも風習としてあり、それを題材に7年もの構想期間を経て描かれたのがミレーの「落穂拾い」です。
慣習の裏にある意味を知ると、ミレーが構想に7年もの月日をかけたことも納得できます。
「落穂拾い」に込められたミレーの想い
ミレーは「落穂拾い」で何を表現したかったのかというと、農夫たちの作業の反復感と日々の疲労感です。
この感覚を込めたいと思うのも幼少期の経験があるからでしょう。
「落穂拾い」の女性たちは顔は見えません。そして腰を曲げて柔らかな曲線を使い丁寧に描かれています。女性の周りを同じような柔らかな農地を表す曲線が何度も描かれていて、それは日々の労働の反復を表しています。
また、その反復を感じることで労働の疲労感までもを伝えます。
背景には日を浴びる山のように積まれた収穫物があり、対照的にその前で拾われる命をつなぐための落穂と、命をつなぐために拾う女性たち。
ミレーの表現したかったことがこの構図からもよく分かります。
顔は見えない角度で描かれることで、観た人は自分をそこに置き換えることができ、そして心に染みていくのだと思います。
女性のスカートが周囲の柔らかい色彩とは対照的な濃い色で描かれているのは、女性たちのたくましさを表すとともにミレーの女性たちへの敬意であり尊敬であったと感じます。
ミレーが農家の長男であったからこそ、深い心の部分や日常生活や労働の辛さを理解して、それを絵画作品に落とし込めたのだと思います。
ミレーにしかできない労働階級への尊敬とこの現状を伝えるのが「落穂拾い」です。
その後のミレーと「晩鐘」
「落穂拾い」もサロンで発表されるとブルジョワ階級と労働者階級の間で賛否両論を巻き起こしましたが、その後もミレーは1859年に「晩鐘」を発表します。
「晩鐘」は農家の夫婦が畑で晩鐘が鳴り響くのを合図に、作業を止めて二人で揃って祈りを捧げる様子を描いたものです。
祈りを捧げる女性の右後ろの背景に小さく尖塔が描かれていますが、これは後から描きたしたもので、この尖塔を描き終えてから作品名が「晩鐘」となったそうです。
1867年のパリ万博で「晩鐘」は大きな注目を浴び、ミレーは経済的にも豊かになり、画家としても地位も確立できました。
ミレーはバルビゾン派の中でも風景画よりも労働者階級の日常生活に着目して、それに敬意をはらいながら作品に反映するという、とても独特な作風の持ち主でした。
そのミレーの姿勢は日本人にも好まれる部分が大きいのだと思います。これがミレーが日本でも人気のある画家である所以かと感じました。
ミレーの作品は抽象画や奇抜な現代アートなどと違い、写実的であるためとても鑑賞しやすいです。
そしてただ「きれい」と感じるだけでなく、作者の人生と作品の生まれるまでの背景を知るともっとミレーの作品を楽しむことができますよ。
※また豆知識として、ミレーに影響された画家として有名なのがゴッホです。1888年のゴッホの「種まく人」はミレーの作品の模写ですね。