印象派の代表格のモネとルノワール。二人の絵画は似ているようで似ていない。
でも接点も類似点も多かったモネとルノワール。
そんな二人の絵画の違いと二人の関係について解説しています。
モネとルノワールは印象派を代表する画家で、日本で人気もあり知っている方も多いと思います。
モネとルノワールは同じ時代を生き、印象派を作り出した朋友でした。
モネとルノワールの関係とは?
モネがルノワールと出会うまで
モネの本名はオスカー・クロード・モネ。1840年11月14日にフランスのパリに生まれました。
小さな時から絵が上手く、文具店の店先で作品を販売していました。
18歳の頃に風景画家のウジェーヌ・ブーダンに出会い、屋外での油絵制作を教えてもらいます。
戸外での制作を通してモネは自然の中にある光を意識するようになり、モネの光をとらえる感覚の基礎はこの頃に培われたと思われます。
このウジェーヌ・ブーダンとの出会いでモネは油絵を描くようになり画家として歩むことになりました。
モネはパリで美術学校に入りその後、シャルル・グレールの元で学ぶようになります。
ここでモネはアルフレッド・シスレー、フレデリック・バジール、朋友のピエール=オルギュスト・ルノワールといった後に印象派を構成する画家たちと出会いました。
ルノワールがモネと出会うまで
ピエール=オルギュスト・ルノワールは 1841年2月25日にフランス中南部のリモージュに生まれました。
モネとは1歳違いとなります。
仕立て屋の7人兄弟の6番目で、家は貧しく磁器の絵付け職人となりますが、機械化される時代の流れの中で職を失います。
その後、扇子の装飾や紋章を描いたり、カフェの壁の装飾など、職人として色々な仕事をこなす傍ら、デッサン学校に通い絵を学んでいきました。
1961年にシャルル・グレールのアトリエでクロード・モネ、を始めとするアルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールといった後に印象派として活躍する画家と出会いました。
1963年には、モネ やシスレーと共にシャイイ=アン=ビエールでフォンテーヌブローの森で絵を制作しています。
モネのサロンへの挑戦
モネは1865年にサロン・ド・パリで「館長のエーヴ岬」と「オンフルールのセーヌ河口」が初入選、
1866年も恋人のカミーユを描いた「緑衣の女」と「シャイイの道」が入選しましたが、
1869年、1870年は落選を繰り返しました。
モネの絵筆の跡が残っている独特のタッチが不完全、不完成と評価されのが理由です。
現代でこそ、筆の跡はモネを象徴するような技法なのに当時はそれが低評価を受ける原因だったのですから、
時代の流れとともに芸術の美も変化していくのがとても興味深いですよね。
当時はサロン・ド・パリに入選することが画家として絵が売れるかどうかを決定的に決める要素だったため、モネの生活は大変苦しいものでした。
ルノワールのサロンへの挑戦
ルノワールは1863年からサロン・ド・パリへ作品を応募します。
1864年「エスメラルダ」が入選、
1865年にもシスレーの父を描いた肖像画など2点が入選、
1866年は「フォンテーヌブローの森のジュール・ル・クール」が入選、
1868年は「日傘のリーズ」が入選、
1970年には「浴女とグリフォンテリア」が入選しています。
モネとルノワールのサロンの評価の違い
モネと比べるとルノワールの方が安定して入選しています。
これはルノワールの方がモネよりも印象派の特徴である光を捉えつつも、輪郭がはっきりと感じられることと、人物を強く表現しているからかと思います。
モネの方が抽象的な表現で人物さえもその情景の一つと捉えています。
一方のルノワールは現実を忠実に描き、さらに人物は強調されるように描かれています。
モネとルノワールの友情と印象派の技法の確立
1869年の落選で落ち込み生活も困窮するモネにルノワールはパンを運んだりして援助をしたり、二人は絵画を超えて交流をしていくようになります。
そしてモネはルノワールと共に水浴場「ラ・グルヌイエール」で二人は並んで制作をするようになりました。
この頃の制作活動を通して、モネとルノワールは従来のパレットの上で色を混ぜる方法ではなく、
原色の色をそのままキャンバスに乗せることで光と光の明るさを表現する表現方法を確立しました。
光の三原色は(赤・緑・青)で作られ、それぞれが混ざると明るくなって白くなっていきます。
それに対して色の三原色は(シアン・マゼンタ・イエロー)で構成されています。
こちらはそれぞれが混ざると黒に近づいていきます。
絵の具はもちろん後者の色の三原色ですので、混ぜれば混ぜるほど色は彩度を下げ、暗く鈍い色彩となります。
これでは満足のいく光の表現ができないという問題を解決すべく生まれた考え方が、なるべく色を混ぜないで配置していくという描き方です。
モネやルノワールは光の表現において、パレットの上で絵の具を混ぜるのではなく、原色同士を筆で置いていくという手法を用いることにしました。
そのように描いた作品は、近くでその作品を見ると何が描かれているのかぼんやりとしてしまうのですが、
2メートル程度離れるとそれぞれの色が隣り合う色と溶け合い混ざり合い、作品は眩い光と空気を放ちます。
この手法は筆触分割や色彩分割と呼ばれます。
「印象派」の由来
当時のサロン・ド・パリは保守的で伝統を重んじる風潮の中で、新しい技法を取り入れているモネやルノワールは冷遇されていました。
それを受けてモネ、ルノワール、ピサロ、ドガらは独自の展覧会を開くという構想を持つようになりました。
1874年に「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」を設立し、
第一回目の展覧会はサロン開催の2週間前から1ヶ月間にわたって開催されました。
この展覧会は社会にはなかなか受け入れられず、酷評されることも多く、
その際、モネの「印象 日の出」という作品タイトルを引用し、嘲笑の意味で「印象派の展覧会」という記事タイトルがつけられました。
これが「印象派」の言葉の由来です。
この由来を知った時、私は「酷評からきた言葉だったなんて」とショックを受けました。
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まとめ
モネとルノワールは日本でもとても有名な画家です。
作品は鮮やかに一瞬の光を捉えて表現することで、そこにある空気、情景を見事に伝えています。
同じ時代を生き、同じ場所で一緒にキャンバスを並べて作品を描き、技法を編み出しました。
モネは人物をその景色の一部ととらえ描く画家でした。
ルノワールは情景としての人物ではなく、人物を強調して描く画家でした。
印象派を代表するモネとルノワールはとても有名ですので、展覧会も多く行われています。
その際は「画面に近づいて見る」、「離れて見る」、「モネの人物とルノワールの人物の違い」に着目してもらうと、より楽しく鑑賞できると思います。
絵画はそのものを楽しむことができますが、それに少しの知識や情報をプラスするともっと楽しめるものになります。
モネ作品集
西洋絵画の巨匠 (4) ルノワール